辺境荒野

なんかこう、のんびりと色々。

【エッセイ】それでも人生は続く

 「人生終わり」、「人生詰んだ」。こんな言葉は流行語大賞にこそ挙がらないが、きっと日本のどこかで毎日のように叫ばれているのだろう。言語を変えれば世界中でも「オーマイガー」とか「アイヤー」だとか嘆いて人生の終わりを叫ぶ人は古今東西、そしてこの瞬間にもごまんといるのだろう。

 かく言う筆者だってなんども「人生終わりだ」と思ったことはあるし、この言葉を呟いたり叫んだりした事もある。特に中学高校の時分などは筆者の人生はどん底だったので、登下校のときは通学路でもやもやぼやぼや「こんな人生はもう終わりだ」などと考えていた。通学路の途中には銀色の高い鉄塔があって、自分はいつかきっとあそこに登って派手に飛び降りて明日の朝刊に載ってやろうなどとすら考えていた。

 しかし人生は終わらなかった。別に今現在は人生がすごく好転して楽しい日々を送っているという訳でもないが、それでも人生は続いている。

 

 「人生終わり」、この言葉を唱えても、人生は終わらない。当たり前だけれども考えてみれば、幸いなのか残酷なのかわからないが、不思議なことである。

 嘘か真かは分からないのだが、ヤギか何かの動物は自分の命の危機が迫って、もうどうしようもないとなると、脳内の自殺回路とも言うものが作動してその場で倒れ死んでしまうらしいが、少なくとも我々人間にはそのような回路は存在しない。だからどんなに嘆いてもわめいてもテレビの電源を切るようには人生は終わらない。とんでもない失敗をして、「人生終わりだ」と、心の底からてっぺんまで思ってみようが、そうしたら次の瞬間に脳みそが弾け飛んでお陀仏などということにはならない。結局その晩には眠ったり、次の日には食事をするし、「終わった人生」の「おまけの日々」の中でも律儀に息を吸ったり吐いたりする。そしてそれをもどかしいと思っても、やめることは出来ず、終わったはずの人生の中で身体は脳みその都合などお構いなしに生命活動を行い続ける。

 

 筆者自身がまだ長いとはいえない人生の中で得た教訓らしいものと言えば、「人は人生を諦めて死にたくて死にたくてしょうがない時なんかには大抵死ねないし、そのくせきっと死にたくなくてしょうがない時にこそ死はやって来る」という事である。こういう事を長ったらしく言わずに短く収めた古い金言が「メメント・モリ」ということなのだろう。

 

 筆者はもしも眼の前に人生が終わりだと嘆いていて、明日にも今日にも死を選ぼうとしている人がいたとしても、無責任に「生きていればきっと良い事がある」となど言えない。ただし、死ぬという事は案外難しいということだけは知っている。「人生が終わった」後の「おまけ」のような日々は、その人にだって恐らくはきっとやって来る。

 

 「人生終わりだ」と叫んでも、きっと明日はやって来る。それが幸か不幸かは分からないが。