辺境荒野

なんかこう、のんびりと色々。

【日記】ウィズ・ザ・ビートルズ十年記【2021/04/02】

 最近になってビートルズを聴き直すことにハマっている。ビートルズをより深く理解するために『真実のビートルズサウンド完全版』という本を買った。まだ浅くしか読めていないが、物凄い知識量の本である。曲の音楽的特徴から作曲にまつわるエピソードまで山盛りで、しかもそれが一曲ごとに網羅されているのである。物凄い。

 デビュー前から熱烈なアイドル的人気を博したイギリス・リヴァプール出身の四人組バンド「The Beatles」は、たった10年間の間に非常に幅広い音楽分野の中で実験と発明を繰り返し、数々の伝説と共にその活動期間を駆け抜け、解散とともにメンバーはそれぞれの道へと進んだ。ミュージシャン広しといえど、これほどにドラマに満ちた密度の濃い10年間を歩んだグループはそう多くは無いのではないか。

 10年と言えば自分がビートルズと出会ってから後少しでおよそ10年になる。しかしそれだけ聴いていても改めて緻密に聴き直すと知らないことだらけだったんだなあという事に改めて気付く。なんてったって1960年代に始まる60年もののバンドである。ガンダム以上に経歴ン十年選手のガチ勢がわんさかいるので、10年足らず聴いていた程度でおいそれに上級者どころか中級者ですなどとはとても名乗れない。また、それだけ長くの時間人を惹き付けるだけの魅力に溢れているバンドであるから、もちろん奥は深い。

 さて、ビートルズは10年間の活動期間のうち、音楽性の変化から前期、中期、後期と分けられるのだが、自分は中期から後期にかけての期間が特に好きである。インドに行ったり東洋の禅に凝りだしたりしてサイケ色を強めたり、作曲における実験的傾向が強まった中期、そしてメンバー間の関係悪化とは裏腹に豊富な経験によって円熟した後期の音楽、そしてその中でも特に中期時代の前衛的な楽曲の数々は、中学時代の思春期のオレの心を強烈なまでに揺さぶり、それは今なお色褪せない。

 さて、ビートルズと共に歩んだ10年の半生、無論彼らほどに色濃い人生など送れるべくもなく、思い返せばなんとものっぺりした半生だったなーなどと後悔することも無いではないが、それでもビートルズをきっかけに幅広い音楽の世界を趣味として生きてこれた事は大きな財産だったと思う。きっと自分はこれからの人生もビートルズを始めとした様々な音楽と共に年月を歩んでいくのだろう。

 ビートルズと出会ってから経とうとしている「10年」という期間を目処に、これからの10年はきっと一点も後悔しないようなものにしたいと思いつつ、「In My Life」に耳を傾けながら今日は筆を置くことにする。

【日記】”はざま”の時間【2021/03/31】

 いま自分は物事に取り掛かって、結果がでるまでの間、つまり”はざま”の時間にある。いわゆる滞空時間とでも言えば良いのだろうか。オレはこういう大きな単位で言えば人生に、小さな単位で言えば日々の生活の時間に出来る”はざま”が嫌いだ。なんとも居心地悪く、ソワソワとして居所がないようなこの時間を上手く活かせない。”はざま”を経て得られるであろう結果を待つことを座して待ち、楽しむ事が出来ない。

 この春の4月を前にしたこの時間において自分の立ち位置は色々な”はざま”の中にある。小さなものとしては、Aliexpressで買った時計がやったら時間かかっても音沙汰が無いという”はざま”。通販で品物が届くまでの「滞空時間」は何度経験しても慣れない。

 そしてさらに人生に関わるほどに大きな”はざま”のなかにある。

この春から大学に復帰することになった。復帰と言っても別に休学してたわけでは無いのだが、例の流行病のせいやら持病の為やら家の事情やらと、色々とギクシャクしてしまって、一時は大学を中退して働き始める……という案すらも、真面目に検討していた。しかし、大学の教授が相談に乗ってくれて打開案のようなものを提示してもらい検討した結果、半年ほどの実質プー太郎期間から抜け出して春から大学生へと復帰するという訳である。

 いやー辛かった。家族に大変な苦労をかけているという事は分かってはいたつもりだけれども、本当には理解していなかったのだと思う。こうしてオレ自身の方向性が決定するまでは、いよいよオレに愛想を尽かしかけた家族ともピリピリとした、さながらメキシカン・スタンドオフ※のような何をやってもケンカになりそうな一触即発状態だったが、その雰囲気がとても辛かった。

 さて、大学へ復帰する事は決まったわけであるが、大学が始まるのは4月のしばらくしてからである。そして今は「大学が始まるまでの”はざま”」という訳だ。様々な不安に包まれている。今年こそ失敗する訳には行かないというプレッシャー。本当にまたやっていけるのかという不安。そんな不安を抱えながら今、”はざま”の時間にいるのは、もどかしい。

 人生を豊かにするためには、こういう”はざま”こそを余裕を持って準備をしたり、何をやろうかと考えて楽しめる人間になると良いのだろうか。”はざま”を制するものが人生を制する、なんちゃって。

 

※メキシカン・スタンドオフ:映画やドラマなんかでよくある、三人が三人に銃を向けあっている状態の事。ああいう状況からウマいこと相手を説得したりして、生還する方法なんかを妄想し出すと夜も眠れなくなるのだ。

【日記】版権黙示録【2021/03/29】

 最近自分は「教養を付けねばならん!」と思い立っていろいろな古典作品などを読み漁っている。いつもの「三日坊主」の思い付きである。

 今回は特に西洋に凝っていて、シェイクスピアとかドストエフスキーとかに手を出した。いつまで続くやら。読み勧めている途中であるが、ドストエフスキーの「地下室の手記」はなかなか面白い。ドストエフスキーの作品には現代のダメ人間の心をくすぐる何かがある。

 古典的文学作品はとっつきにくく、読者に一定の前提となる知識を要求する、まるで大学試験のような手続きを要求するかのような高尚なものかと思いきや、案外、吸い込まれるように共感できる、いつの時代も変わらない人間の「ダメダメさ」をテーマにしている事も結構多い。

例えば、その昔国語の授業で読んだ、森鴎外の「舞姫」は、その文体を見れば明治初期の古めかしく美しくも読みづらい、いかにも「知識人の文章」というとっつきずらさを醸し出していながら、さてその内容を呼んで見れば、なんともそのいい加減な放蕩さ、無責任でダメな若者の人間臭さが出過ぎているほどで、なんじゃこりゃと思った事を思い出した。もちろん、そんな人間臭さを文学として昇華できてしまう手腕が文豪の文豪たる所以なのだろうけれど。

 

 そしてこの古典マイブームの流れで自分はなんと聖書にまで手を出している。別に信仰するつもりは全く無いのだが、西洋の文学作品を読むと、この言い回しやエピソードの元ネタは聖書、という事がとにかく多いので、基礎的な知識は付けねばならんと思った訳である。

 宗教書であるから流石に読み解くことは難しく、大部分はきちんと理解できたのか自分自身不安である、というのが本音なのだが、始終堅苦しく荘厳な文章が続くのかと思いきや、存外に楽しんで読めてしまう箇所もあった。

 創世記の後半などなんともメロドラマじみており染み入るものもあった。また、物語の中でなんとも唐突に繰り広げられるワンシーン、ヤコブという人物に突如なんと神が襲いかかり、一晩中レスリングをした挙げ句、なんとヤコブは勝ってしまい神から「イスラエル」という名を与えられるという、一体どういった感想を抱けば良いのか、もしくはツッコんでしまっても良いのだろうかというエピソードは印象深い。「面白み」と言ったら本職の方々に失礼なのだが、そういう楽しみ方も出来てしまった。

 

 さて、聖書の黙示録(世界の終わりについての話)などを読み勧めていた影響かは分からないが、自分は今日なんと「世界が終わる夢」を見てしまった。

 うーん、大昔の人が聖書をカジった後に「世界の終わりの夢」を見たら、これは何かの啓示だ!となるのかも知れないが、そこは残念、近代にフロイトはあらゆる夢は性欲に起因するとしてしまったし、夢って所詮そんなもんと人は知ってしまった時代である。

 しかし起きてから思い出してみるとこの世界の終わりの夢がまたケッサクだった。世界を救うためにスパイダーマンワンダーウーマンが出るわその偽物まで現れるわ、なんともマーベル映画じみた世界の終わりであった。

 もしも現代人に聖書的啓示が降りてきても、聖書は書けないと思った。なぜなら現代人の意識には版権商品や版権キャラクターが出てくる可能性が高すぎるからである。古代人ならパンとワインと言えても、我が家にあるのはヤマザキの食パンとイオンの赤ワインである。格好がつかない気がする。

【日記】「三日坊主」、あるいはドラえもんの呪い【2021/3/28】

 不定期的にエッセイっぽい日記を付けようと思い立った。

 

不定期」と冒頭一文目からさっそく言い訳をしている所が肝である。重度の三日坊主の自分は何を始めるにしても自身にも周りにも「これは不定期だから」と言い訳をするのである。困ったもんだ。

 しかし「三日坊主」という言葉を聞く度に自分はこう思うのである。「三日も続くならリッパじゃん」と。自分の場合は思い立っても続いて半日が良いところという上級坊主なのである。

 ところで「三日坊主」という言葉は、なんとも罪深いものであると思う。こんな言葉が無ければ、人は三日以上に物事を続けられるのではなかろうか。「三日坊主」という言葉の呪いに縛られているのではないだろうか。なんとも言い訳じみているが、やはり人間は言葉を使って考える生き物だから、適した言葉があってしまうとそれに縛られるのではないかなどと割とマジメに思ってもいたりする。

 言葉の呪いといえば「肩こり」は夏目漱石が発明したという話がある。「肩こり」という言葉を作ったのではなく、「肩こり」を発明したのである。どういう事かというと、夏目漱石が自身の体調から「肩こり」という言葉を発案したがために、「肩がこる」という現象を訴える人が多数現れたのだという。ホンマかいな。しかし漱石の逸話に限らずとも、それまでは限られた人が漠然と感じていた物事に対して、ウマい単語を作って表現してしまったがばかりに大勢の人々に一般化してしまった…というのはありそうな話である。

 さて「三日坊主」に話が戻るが、筆者の場合「三日坊主」という言葉に呪われた、つまりこの単語を知って自分自身に当てはめてしまったのは「ドラえもん」の影響するところが大きいのではないかと勝手に思っている。パッと思い出せる範囲の中でも「ドラえもん」の中でのび太が「三日坊主」を披露するエピソードは結構多い気がするのだ。子供の頃にドラえもんを読んで、のび太の一連の「三日坊主」を見る度に、「こういうこともあるのか」とウマい言い訳を見つけてしまった…というのがオレの主張である。いかん、なんだか「マンガが子供に与える影響」的な教育論みたいになりかけてしまった……

YOASOBI「夜に駆ける」・小説「タナトスの誘惑」への同族嫌悪のような感情について自己考察

 今回の記事はYOASOBIの「夜に駆ける」に対する考察である。

 

YOASOBI「夜に駆ける」

https://www.youtube.com/watch?v=x8VYWazR5mE

 

 YOASOBIは筆者も最近になってから聴きだしていて、「ハルジオン」や「アンコール」などの曲はかなり気に入っているのだが、「夜に駆ける」に関して言えば筆者ははっきり言ってこの曲があまり好きではない。正確に言えば、「受け入れ難い」。これらの言葉だけではおそらく様々な誤解を招くであろうからこの「好きではない」「受け入れ難い」という感情についてこの記事では詳しく解説していく。

 

 筆者なりに考えてみると、この「好きではない」という感情は、この曲が「分からない」からではなく、筆者なりに下手ながら「分かってしまう」、さらに言えば考察を交える事によって「分かりすぎてしまう」事に起因するのだと思う。つまり「同族嫌悪」のような感情なのである。

 

 正直な所、この曲が本来意図してるところを正しく理解できているのかは少々自信が無いのだが、「夜に駆ける」の歌詞や他者様の考察を見ているうちに筆者なりの「夜に駆ける」論とも言うべきものが形成されていった。そしてそのうちに、ますます「同族嫌悪」とも言えるようなものが深まっていった。

 つまり正確に言えば「夜に駆ける」の曲そのものに対する嫌悪というより、自らの頭の中にあるこの「夜に駆ける」論にたいしての嫌悪なのだから、実は筆者自身がただ単に自己嫌悪を感じているわけであって、身も蓋もなく言ってしまえば結局一人相撲もいいところなのであるが……

 

 

 さてこの「夜に駆ける」は、Web上に公開されている星野舞夜さんという方の「タナトスの誘惑」という短編小説が元になっている。

monogatary.com

 

 この小説は「タナトス」、ギリシャ語で「死の神」、つまり「死」といったものへの誘惑、我々の人生と切っても切り離せず、つねに薄皮一枚を挟んで生の中に偏在する「死」に対して、唐突なまでに不意な誘惑によって「死」に飛び込んでしまう男性を描写したストーリーとなっている。注目すべきはこの「タナトス(死神)」が作中では男性の心を奪った「魅力的な女性」として描写されていることである。つまり「死」が当事者にとって最も魅力的な姿で迫ってくるのである。

 こういった物語の構図は「夜に駆ける」においても同様であり、「初めて会った日から僕の心のすべてを奪った」魅力的な女性に男性が惹かれるが、振り向いてくれない女性に対しての困惑、苛立ち、そして自らの本心に気付き二人手を取って屋上のフェンスから共に「夜に駆ける」という展開を辿っている。

 

 さて、ここからが筆者の考察、筆者なりの「夜に駆ける」論なのであるが、YOASOBIの「夜に駆ける」の展開に置いては、「死」という存在が「そばにいるが理解できない」存在として描かれ、そして原作小説より色濃く描写されていると筆者は考える。そして描写されながらも、やはり「タナトス」は分からない。

 恐怖小説作家ハワード・P・ラヴクラフト

「人間の感情の中で、何よりも古く、何よりも強烈なのは恐怖である。その
中でも、最も古く、最も強烈なのが未知のものに対する恐怖である」

と述べており、まさにそれに類するものが「死」そのものである。人間は考える動物であるから、「理解できない存在」が大嫌いで、常にそこに何らかの理由を求めようとする。しかし「死」に理由など無く、ただそこにあるだけで絶対に切り離すことが出来ない。

 

 考察を深めると、「タナトスの誘惑」、並びに「夜に駆ける」においては「理解できない死」が、「魅力的な女性」という人間的な姿を取ることによってある種の感情移入が可能になっているのではないかと考える。「死」に対しての感情移入とはなんとも不可思議な事のように思えるが、実際の所、先述の通り人間の生に対して常に並行して存在する「死」、それに対して人間的な性格を与えれば、この「死」に対して感情移入することは可能なのではないだろうか。殊に筆者は精神病を患っているという経験も相まって、「死」という存在へ様々な思いを寄せる比重が他者よりも深いのではないかという事も、これを可能にする一因であると思っている。

 「死に対しての感情移入」。これがまさに筆者が感じる所である「夜に駆ける」への「同族嫌悪」への正体の大きなものの一つなのではないかと考えた。理解できない死へ感情移入することで、「死」を自分の側に引き入れてしまう事は、考えてみればなんとも「死」を理解する上で魅力的なやり方である。

 

 言ってしまえば結局の所、自らをいくら「死」という「理解できないもの」に感情移入したところで、「死」を理解したことにはならない。やはりこの行為もまた、人類が普遍的に行う「死」、並びに理解できない存在をなんとか理由付けて説明しようとする」事にほかならないのである。

 

 古来より人間は宗教哲学などさまざまな「理由」を用いて「死」を理由付けようとし、一定の人々はその事によって救いを得られたのであろうが、科学によって宗教が隅に追いやられた近代以降、つまりニーチェの言うところの「神の死」、M・ウェーバーの言うところの「世界の脱魔術化(=合理化)」によって、我々は自らそれらの「救い」を手放した。そして恩恵と弊害とを抱えながら我々は今日生きている。

 

 話が少し逸れてしまったので本題に戻る。さて「夜に駆ける」において、より緻密な描写によって人間的な性格を与えられている「タナトスの女性」に対して感情移入するという事は、同時に自らの立ち位置を「死」という暗闇に置くことである。さらに筆者がもう一つ考えた事は、先述の通り「死」=「理解できないもの」とした時、つまり「理解できないもの」に対して感情移入するということは、その際に自分自身を「理解できないもの」と同化してしまえるという事である。これが筆者の感じる「同族嫌悪」、正確に言えば「自己嫌悪」の正体のもう一つであると考える。

 自らが「理解できない」存在であるとした時、その時まさにその者は自分以外の他者にとって一つの防壁のようなものを張る事ができるのではないか。

 そもそも人はみな他者に理解されないであろう一面を持っている。その事は自分を自分たらしめる「自己同一性(アイデンティティ)」の根源の一つであるから、万人に普遍的なものであると言えるのだが、あまりにも「理解されない事」、「理解され難い事」を「アイデンティティ」の一面として押し出してしまうということは、取りようによってはひどく傲慢な事ではないだろうか。困ったことに、筆者自身もそのような一面を持ち合わせているから、この事がよく分かってしまうのであるが、本来人と人は分りあえることが望ましいはずなのに、自らを「理解不能な存在」として他者と一線を画すというやり口が、筆者にとっては自己嫌悪と共に傲慢に思えてたまらないのである。

 

 さて、話を「夜に駆ける」に戻すが、この曲に登場する二人の人物、男性と女性の双方に感情移入が出来てしまった時、筆者は上記のような「同族嫌悪」を感じてしまった。ここまで文を書いて思ったが、この感情はやはり殆ど「自己嫌悪」なのであろう。

タナトスの女性」に手を伸ばし、惹かれ、共に死へ飛び込む男性の感情と、「死」そのものの擬人化である女性へ同時に感情移入が出来てしまった時、筆者はこのような困惑を覚え、それは次第に「同族嫌悪」へと発展していった。

 

 末筆になってしまうが、筆者はこのような感情を抱いたとはいえ、これほどまでに考えさせてくれる「夜に駆ける」はやはり名曲であると言える。「死」をこれほど鮮やかに彩って考えさせてくれる曲はそうは無いだろう。筆者自身、このような「好きではない」、「受け入れ難い」ような感情を抱きながらも、何度もこの「夜に駆ける」を聴いている。

 

Ado「うっせぇわ」の歌詞に思うこと

【Ado】うっせぇわ

https://www.youtube.com/watch?v=Qp3b-RXtz4w

 

 最近(と言っても流行のピークは過ぎてしまったかもしれないけれど)流行った曲、ご存知Ado「うっせぇわ」。過激な歌詞で現代社会に生きる若者の内心を叫んだこの曲は様々なメディア上で賛否共に大きな反響を呼んだことは記憶に新しい。何よりこの歌を歌うAdoさんは女子高生であるという事も世間を驚かせ、その事がよりこの曲を聴く若者の心を打ったのだと思う。

 筆者は20代なのだが、初めてこの曲をラジオで聞いた時、この曲の痛烈な現代社会批判というか、刺々しいまでの純粋な感情の吐露というものには多少なりとも心を動かされた事を覚えている。

 「うっせぇわ」。確かにそうだろう。この世の中のしがらみ、細々した作法、マナー人間関係、上から目線の大人たち、何もかもに、「うっせぇわ!」と言いたくなる気持ちはよく分かる。

 

 しかし、筆者はこの曲の歌詞を読んでいて、一つ気になる事があった。それは結論から言ってしまえば、昨今メディアで「うっせぇわ」の歌詞の口汚さを指摘する論調、ようするに流行り物おなじみの「子供が真似したら困る」論とも少し似ている歌詞の攻撃性についてなのであるが、筆者が言いたいのはメディアの論調とはむしろ真逆である。

 

 もっと口汚くて良い。もっと攻撃的でいいと思ったのだ。

 

 「うっせぇわ」の歌詞を一読すると、この曲を歌っているのは、やはりおそらくはしがらみの多い社会に生きている若者という所だろう。しかし、彼女(便宜的に女性とする)は「うっせぇわ」と直接面と向かって他人を口汚く罵るような真似はしないし、ましてや他者に暴力を振るうような事はしない。

 

「ちっちゃな頃から優等生

 気づいたら大人になっていた

 ナイフのような思考回路

 持ち合わせるもなく」

 

という歌詞にもあるように、おそらく彼女は表面上は常識人であるし、人当たりの良い、「良い人」なのだろう。けれども心の底では腹を立て、怒りが渦巻いている。

「表面上は良い人だが、心の底では不満を抱え、怒りさえ覚えている」

まさに、昨今の「さとり世代」とも言い表される若者の感情を代弁しているのだろう。

表にこそ出さないけれど、目の前にいる上司や先輩には、「うっせぇわ」と思っている。そんな普遍性を持った心情が若者の心を打ったということは理解に難くない。

 

 しかしながら過激なようであるが筆者はこう思う。もっと攻撃的で良いじゃないかと。端的に言えば、心に渦巻く怒りを、もっと直接的にぶつけるように表現して良いのではないかと思う。

 無論教唆をするわけではないが、歌の中であれば人をぶん殴ろうが殺そうが、社会をぶっ壊して革命を起こそうが自由である。一つ例えるならば「うっせぇわ」と比較されて最近よくメディアで取り上げられている尾崎豊の「15の夜」や「卒業」に見られる過激な歌詞(もっとも無論それが全てではなく、尾崎の言いたかったことではないのだが、尾崎の大ファンである筆者の尾崎豊論を語りだすと長くなるので割愛する)、「盗んだバイクで走り出す」「夜の校舎窓ガラス壊して回った」であるような、「下手をしたら誰かが影響を受けて真似しかねない」ような歌詞とは違い、「うっせぇわ」はそのような危うさを含んだ歌詞ではないように筆者には思えるのだ。つまり、あくまで「良い子の怒り」なのである。

 要するに何を言いたいのかと言えば、若者はもっと尖っていて良いのだという事である。さらに言えば、少し失礼な言い方になってしまうが、流行り物だからとこの程度の攻撃性の歌詞で物議を醸すような社会も社会である。

 その昔、かつて1960~70年代は学生運動というような社会変革を目指した運動の最盛期であった。その時代の若者は「うっせぇわ」と叫ぶだけに済ませず、理想の社会のために大学などを占拠し、火炎瓶を投げ、死者すら出した。無論、筆者はこれらの運動のそのような負の部分は肯定しない。けれども、本来若者のエネルギーとは、これほどまでに力強いものなのである。同じく1960~70年代には音楽においても既存の音楽、ひいては社会そのものに疑問を投げかけるようなロックやニューエイジと言ったジャンルが誕生し、広く若者に受け入れられた。音楽や映画といったメディアの力によって、特に若者を縛り付ける道徳といったような価値観は20世紀を通じて大きく変化したのである。音楽の力、若者の力とは本来時代すら変えうるものなのだ。

 だから筆者は、「うっせぇわ」に対して、怒りを内に秘め、確かでは有るが密かに収まっている攻撃性を示唆するような歌詞ではなく、毛ほどの遠慮もいらない、もっと直接的な一撃、変化の展望を表現しても良いのではないかと考える。「この世の中は間違っている」と考えつつ、世の中に違和感を持ちつつもなんとか迎合するのではなく、変化のために行動することは、若者の特権であると筆者は思う。

 

 しかしながら、時代は変化する。若者も変化し、この「うっせぇわ」が若者に人気を博したのも、やはりかつてとは変化した若者の感情を的確に代弁したものなのであろう。自分自身で言うのも変ではあるが、筆者は年齢こそまだ若いもののどこかズレた古い人間であるとは自覚している。なので肝心の、この「うっせぇわ」を聴き心を打たれた若者たちとは根本的に価値観にズレがあるのかもしれない。

 という訳で筆者が長々と書いたこの意見も、「うっせぇわ」、「くせぇ口塞げや限界です」と思われてしまっているのかもしれないが……