辺境荒野

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YOASOBI「夜に駆ける」・小説「タナトスの誘惑」への同族嫌悪のような感情について自己考察

 今回の記事はYOASOBIの「夜に駆ける」に対する考察である。

 

YOASOBI「夜に駆ける」

https://www.youtube.com/watch?v=x8VYWazR5mE

 

 YOASOBIは筆者も最近になってから聴きだしていて、「ハルジオン」や「アンコール」などの曲はかなり気に入っているのだが、「夜に駆ける」に関して言えば筆者ははっきり言ってこの曲があまり好きではない。正確に言えば、「受け入れ難い」。これらの言葉だけではおそらく様々な誤解を招くであろうからこの「好きではない」「受け入れ難い」という感情についてこの記事では詳しく解説していく。

 

 筆者なりに考えてみると、この「好きではない」という感情は、この曲が「分からない」からではなく、筆者なりに下手ながら「分かってしまう」、さらに言えば考察を交える事によって「分かりすぎてしまう」事に起因するのだと思う。つまり「同族嫌悪」のような感情なのである。

 

 正直な所、この曲が本来意図してるところを正しく理解できているのかは少々自信が無いのだが、「夜に駆ける」の歌詞や他者様の考察を見ているうちに筆者なりの「夜に駆ける」論とも言うべきものが形成されていった。そしてそのうちに、ますます「同族嫌悪」とも言えるようなものが深まっていった。

 つまり正確に言えば「夜に駆ける」の曲そのものに対する嫌悪というより、自らの頭の中にあるこの「夜に駆ける」論にたいしての嫌悪なのだから、実は筆者自身がただ単に自己嫌悪を感じているわけであって、身も蓋もなく言ってしまえば結局一人相撲もいいところなのであるが……

 

 

 さてこの「夜に駆ける」は、Web上に公開されている星野舞夜さんという方の「タナトスの誘惑」という短編小説が元になっている。

monogatary.com

 

 この小説は「タナトス」、ギリシャ語で「死の神」、つまり「死」といったものへの誘惑、我々の人生と切っても切り離せず、つねに薄皮一枚を挟んで生の中に偏在する「死」に対して、唐突なまでに不意な誘惑によって「死」に飛び込んでしまう男性を描写したストーリーとなっている。注目すべきはこの「タナトス(死神)」が作中では男性の心を奪った「魅力的な女性」として描写されていることである。つまり「死」が当事者にとって最も魅力的な姿で迫ってくるのである。

 こういった物語の構図は「夜に駆ける」においても同様であり、「初めて会った日から僕の心のすべてを奪った」魅力的な女性に男性が惹かれるが、振り向いてくれない女性に対しての困惑、苛立ち、そして自らの本心に気付き二人手を取って屋上のフェンスから共に「夜に駆ける」という展開を辿っている。

 

 さて、ここからが筆者の考察、筆者なりの「夜に駆ける」論なのであるが、YOASOBIの「夜に駆ける」の展開に置いては、「死」という存在が「そばにいるが理解できない」存在として描かれ、そして原作小説より色濃く描写されていると筆者は考える。そして描写されながらも、やはり「タナトス」は分からない。

 恐怖小説作家ハワード・P・ラヴクラフト

「人間の感情の中で、何よりも古く、何よりも強烈なのは恐怖である。その
中でも、最も古く、最も強烈なのが未知のものに対する恐怖である」

と述べており、まさにそれに類するものが「死」そのものである。人間は考える動物であるから、「理解できない存在」が大嫌いで、常にそこに何らかの理由を求めようとする。しかし「死」に理由など無く、ただそこにあるだけで絶対に切り離すことが出来ない。

 

 考察を深めると、「タナトスの誘惑」、並びに「夜に駆ける」においては「理解できない死」が、「魅力的な女性」という人間的な姿を取ることによってある種の感情移入が可能になっているのではないかと考える。「死」に対しての感情移入とはなんとも不可思議な事のように思えるが、実際の所、先述の通り人間の生に対して常に並行して存在する「死」、それに対して人間的な性格を与えれば、この「死」に対して感情移入することは可能なのではないだろうか。殊に筆者は精神病を患っているという経験も相まって、「死」という存在へ様々な思いを寄せる比重が他者よりも深いのではないかという事も、これを可能にする一因であると思っている。

 「死に対しての感情移入」。これがまさに筆者が感じる所である「夜に駆ける」への「同族嫌悪」への正体の大きなものの一つなのではないかと考えた。理解できない死へ感情移入することで、「死」を自分の側に引き入れてしまう事は、考えてみればなんとも「死」を理解する上で魅力的なやり方である。

 

 言ってしまえば結局の所、自らをいくら「死」という「理解できないもの」に感情移入したところで、「死」を理解したことにはならない。やはりこの行為もまた、人類が普遍的に行う「死」、並びに理解できない存在をなんとか理由付けて説明しようとする」事にほかならないのである。

 

 古来より人間は宗教哲学などさまざまな「理由」を用いて「死」を理由付けようとし、一定の人々はその事によって救いを得られたのであろうが、科学によって宗教が隅に追いやられた近代以降、つまりニーチェの言うところの「神の死」、M・ウェーバーの言うところの「世界の脱魔術化(=合理化)」によって、我々は自らそれらの「救い」を手放した。そして恩恵と弊害とを抱えながら我々は今日生きている。

 

 話が少し逸れてしまったので本題に戻る。さて「夜に駆ける」において、より緻密な描写によって人間的な性格を与えられている「タナトスの女性」に対して感情移入するという事は、同時に自らの立ち位置を「死」という暗闇に置くことである。さらに筆者がもう一つ考えた事は、先述の通り「死」=「理解できないもの」とした時、つまり「理解できないもの」に対して感情移入するということは、その際に自分自身を「理解できないもの」と同化してしまえるという事である。これが筆者の感じる「同族嫌悪」、正確に言えば「自己嫌悪」の正体のもう一つであると考える。

 自らが「理解できない」存在であるとした時、その時まさにその者は自分以外の他者にとって一つの防壁のようなものを張る事ができるのではないか。

 そもそも人はみな他者に理解されないであろう一面を持っている。その事は自分を自分たらしめる「自己同一性(アイデンティティ)」の根源の一つであるから、万人に普遍的なものであると言えるのだが、あまりにも「理解されない事」、「理解され難い事」を「アイデンティティ」の一面として押し出してしまうということは、取りようによってはひどく傲慢な事ではないだろうか。困ったことに、筆者自身もそのような一面を持ち合わせているから、この事がよく分かってしまうのであるが、本来人と人は分りあえることが望ましいはずなのに、自らを「理解不能な存在」として他者と一線を画すというやり口が、筆者にとっては自己嫌悪と共に傲慢に思えてたまらないのである。

 

 さて、話を「夜に駆ける」に戻すが、この曲に登場する二人の人物、男性と女性の双方に感情移入が出来てしまった時、筆者は上記のような「同族嫌悪」を感じてしまった。ここまで文を書いて思ったが、この感情はやはり殆ど「自己嫌悪」なのであろう。

タナトスの女性」に手を伸ばし、惹かれ、共に死へ飛び込む男性の感情と、「死」そのものの擬人化である女性へ同時に感情移入が出来てしまった時、筆者はこのような困惑を覚え、それは次第に「同族嫌悪」へと発展していった。

 

 末筆になってしまうが、筆者はこのような感情を抱いたとはいえ、これほどまでに考えさせてくれる「夜に駆ける」はやはり名曲であると言える。「死」をこれほど鮮やかに彩って考えさせてくれる曲はそうは無いだろう。筆者自身、このような「好きではない」、「受け入れ難い」ような感情を抱きながらも、何度もこの「夜に駆ける」を聴いている。